連鎖のDCG

主にDCGについて書くブログだった。今はメギド72やVtuberに関してもちょっと書く。

独り歩きする「バーチャル」。バーチャルは何を修飾する言葉であっただろうか?

私のTwitterタイムラインにVirtual beingsという単語が流れてきた。

Vtuberという媒体依存の言葉にとって代わる新しい呼称としてVirtual beingsを使っていこうという流れがあるらしい。

これはおかしい。順序があべこべだ。

 

Virtual Beingの元々の定義と流れのおかしさ

Virtual Beingsは「中身がAI(人工知能」であるという。

中身がAI」というところ以外は私の話の本題ではないので、元々の定義としてのVirtual Beingsの詳しい点については以下のブログ記事を読んでいただくと、もう少し分かるかもしれない。

note.mu

venturebeat.com

元々の定義で提唱されるVirtual Beingsについては、要は「完全に人工品で構成された存在とのコミュニケーションを、現実へ進出させて社会のために役立てよう」ということなので特に問題を感じない。

私が危惧しているのはVirtual Beingsを今で言うところのVtuberやVタレントという中身として人間がいる存在の新しい呼び方にしようという動きについてである。

VtuberやVタレントはバーチャル(実質、仮想)の呼称を付けずとも、元々からして現実の人間部分のBeings(存在)は確約されているではないか?

 

VtuberやVタレントを「Virtual Beings」と名付けなおすのは現実からの後退が起きていないか?ということである。

※追記:上記は私の先入観からの懸念である可能性が出てきたので最後に画像を追加した。 

 

バーチャルは何を修飾する言葉か?

VtuberやVタレントを指す言葉として使われる「バーチャル」だが、その言葉の由来は「Virtual reality=仮想現実」である。

「仮に想う」という言葉で形容されがちなためによくわからない状態にあるが、virtualとはつまり「本当ではないが、あたかも本当のように見なせる」という「実質上の」と訳すことのできる意味を持つ形容詞である。

では、何があたかも本当に現実なのか?というと、その答えはアバターである。

データで構成された、現実の肉体ではないアバターを現実とみなすということが本来のバーチャルなのである。

裏を返せば、Vタレントの演者自体は元から現実でバーチャルという形容を必要としないのである!

 

暴走するバーチャルの純化運動

だが、日本でVtuberやVタレントを追う人々の一部には「バーチャル」を「汚い現実から切り離された何かキラキラしたもの」と誤解している人が多いようだ。

我々はそれを形容するために適した言葉をすでに持ち合わせており、それは「フィクション」と呼ばれている。

バーチャルという言葉を、空想という意味を持つ「フィクション」と混同して使うのは大変危険なことだ。

「フィクション」と取り違えられた「バーチャル」の純化を目指す運動の至る先は、現実の人間性に対して排他的になったフィクションに他ならない。

 

 

バーチャルの対義語

Virtualの対義語を「Physical=物理的な、物体として存在する」と紹介する記事もあるが、私は「Actual=実際の」が「Virtual=実質上の」の対義語であると考えている。

しかし、「バーチャル」を取り違えた人に向けた解説としては実際と実質というどっちがどっちだか分からなくなりそうな表現は不適かもしれない。

そこで、あえて「純粋な、混じりっけ無し」という意味の「ピュア」という言葉を使おうと思う。

 

さて、そのうえでこのような図を用意した。

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(バーチャルとピュア、リアルとフィクション)

 

まずピュア・リアル、これは現実である。

実在する人間の肉体と性格、そして現代社会がここに属している。

 

現実の人間が小説やマンガ、アニメなどの創作活動をすると純粋な空想作品であるピュア・フィクションが生まれる。

フィクションの世界には人権は無く、作り手の持つ著作権だけがある。

 

現実の人間がデータでできたアバターを得てVRchatを始めたり、VtuberやVタレントになったりすると「アバターバーチャル・リアリティを獲得する」ということになる。

バーチャル・リアリティを得たアバター部分の人権は、今のところ著作権で守れる範囲でなら守ることが出来る。

 

さて、取り違えられた「バーチャル」の純化運動の先にある物はバーチャル・フィクション極限まで現実の人間を排除した実質上の空想になるだろう。

これはターミネーターマトリックスで描かれる機械と人間の戦争に登場するような悪い機械のようなものに「バーチャル」の信奉者たちがなり果ててしまう可能性を意味する。

 

また、ピュア・リアルから直接的にバーチャル・フィクションへと派生するパターンは何だろうと思案した結果、それは「唐澤貴洋」や「syamu game」なのではないかと私は思っている。

ネットのおもちゃとなって徹底的に冷笑され神格化されるコンテンツ存在そのものとなり、その人のプライベートは侵略される。

人権もクソもあったものではない。

 

終わりに

バーチャルの信奉者たちが自分たちの熱意によって間接的に「ネットのおもちゃ」や「人類の敵」を生み出してしまうのは本意ではないだろうと思うので、どうかVtuberを現実に踏みとどまらせて欲しいと思う。

 

追記

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どうやら私は先入観で「Human beingsとVirtual Beingsは重ならない別々の存在」と思っていたが、これが間違いの元だった

これからはHuman beingsとVirtual Beingsの重なったところVtuberVの者と呼ばれる存在が入ることになるだろう。