アウラ・ベンヤミンと『わんこの卵』
VRの荒野には、ぼやけた静寂の風が吹く。
アウラ・ベンヤミンは黒を基調としたゴシックの服装に身を包んで、毅然とした足取りで前へ進んでいた。
彼女の歩む先には、ひとつの卵があった。
卵の殻には白地にパステルカラーの水玉模様があり、『わんこ』と書かれていた。
アウラ・ベンヤミンが礼節に則り挨拶をすると、卵はその声に驚いて目を覚ましたようだ。
次に卵は寒さを訴え、たどたどしい言葉を発した。
アウラはそれに対して首を小さく横に振った。
「ここで貴方を温めたりはしないわ。ここがヴァーチュアルの世界である以上、貴方は貴方自身の心の中にこそ熱を求めるのでございます」
わんこの卵がその言葉を理解し、消化するまでにいささかの時間を要したが、アウラはそれが完了するまで凛々しい立ち姿で待っていた。
「この服装が気になるかしら?」
卵がそれに同意すると、アウラは続ける。
「これはゴシック。ゴシックは美しく崇高で、私を勇気づける物のコラージュでございます」
着飾ること、それが他人から好感情を引き出すための振る舞いとなって久しいが、そうではない世界観がアウラの目の中には確かにあったのだ。
「このゴシックこそが私の意志。私の心へ熱を与えてくれる」
アウラは襟元に咲くヒスイのブローチに手を当て、大切そうに、慈しむようにして言った。
「貴方が卵から孵る時に、新しいアバターがヴァーチュアルの世界に生まれるでしょう。そのアバターが貴方に勇気を与えてくれるよう祈っておりますわ」
そう語るアウラの目は真っすぐに、卵を捉えていた。
もし仮に卵の魂に目があったとするならば、きっとアウラと目を合わせていただろう。
しばらくの会話の後、卵はアウラ・ベンヤミンの好きなものを訊ねた。
「私には大好きな詩がございます。『決別の朝』という名の詩。それはもう、何度もそらんじたことがありましてよ」
当然、卵は詩の内容を知りたがった。
アウラは小さく咳ばらいをすると、詩を謳い上げ始めた。
「群青の春に立ち 否定するものは二つ 呪う客体は世界と私
ゴシックは武装として私を形どれ 茨のような痛みの中 歩くために
克明の野に降り 受け入れるものは二つ 世界を行く主体は私
ゴシックは勇気として私を志せ 静寂を成す光の中 目覚めるため
決別の朝は来た 決別の朝は来た」
『決別の朝』の最後の一節を詠み上げた時、アウラ・ベンヤミンは自然と眼を閉じていた。
アウラと卵との間にはしばらくの沈黙が続いた。
「今の貴方に詩の全てが伝わったのか、それは分かりません。けれど、貴方にとってこれが難しい言葉だとは思わないわ」
アウラはVRの静かなる白い原野の先へと目を向けて言葉を続けた。
「そして、貴方がこの詩を理解する時。その詩は貴方の中で私のそれとは違う姿になっているのでしょう」
「さて、それでは私はこれでお暇いたします。ごきげんよう、わんこの卵さん」
出会った時と同じように、アウラ・ベンヤミンは卵に恭しく礼をした。
『アウラ・ベンヤミン』は彼女のハンドルネームであり、本名は別にあっただろう。
しかし、会話の中でついに自らの本名を明かすことはなく、ヴァーチュアルの世界ではその必要もなかった。
出会った時と同じように、そこには確かに敬意が在ったためだ。
「またいずれ会うかも知れませんし、これきりかも知れません。それは私たちの幸多き未来だけが決めることでございます」
そう言い残して、アウラは卵の元を去って行った。
アウラ・ベンヤミンはVRの荒野の朝もやの先へと何の気負いも無く進み、いずれその黒いゴシックの姿は見えなくなった。
……そして卵には、ひとすじのヒビが……